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機動戦士ザクレロSEED_第17話

Last-modified: 2008-11-02 (日) 19:54:28

 サイ・アーガイルが乗るミストラルに二発目の着弾があった。穿たれた装甲の破片を撒き散らしながら、ミストラルは回転しつつ宙を漂う。
 戦場の後方に位置するジン長距離強行偵察複座型が、ミストラルを狙撃しているのだ。
「サイ……!」
 アークエンジェルのブリッジ。サイの窮地を見守るしかないフレイ・アルスターは叫びかけ、無理にその声を呑み込んだ。
 ダメだ……取り乱せば、サイに何もしてあげられなくなる。騒げばブリッジから出すとナタルが言ったのは脅しではないだろう。そうなれば、フレイは本当に何も出来なくなる。
 それに、ここでフレイが取り乱して泣きわめいても、サイにとっては何のプラスにもならない。何かするんだ。何が……出来る?
 フレイは、胸の奥から沸き上がる恐怖と焦りを抑え込み、必死で頭を働かせた。
「考えなさい、フレイ。小細工や卑怯勝負は得意でしょう?」
 小さく……自分に命じる様に呟く。
 フレイは陰謀家の質であった。目的を達する為に必要な手段と、その手段を実行する為に必要な犠牲を計る能力に長けている。無論、それを普段の生活で露見させない狡知にも。
 しかし、卑怯な振る舞いを恥じる心は、フレイも持ち合わせていた。
 だからその能力は、多少、フレイの社会的地位を向上させる為と、それに伴って降りかかった火の粉を払う為に使われた以外では、役に立った事はない。カレッジのアイドル的地位を獲得し維持するには色々と有ったのだ。
 それでも、折に触れて直感的に思いつく、とても効率的で卑劣な手段を今までは疎ましくさえ思っていた。特に、サイに対しては、自分の醜い卑劣な姿を絶対に見せられないとまで思っていた。
 しかし今、フレイはその能力を活かそうと頭を働かせている。今は、仮にサイに嫌われたとしても、やらなければならない事があるからだ。
「ちょっと、貸して!」
 悩ましげに眉を寄せて顰め面をしていたフレイは、いきなりその顔に意を決した表情を浮かべると、通信席の通信機に飛びついた。
 通信は、サイに繋がっている。それはフレイも知っていたので、そのままマイクに向かって声を上げた。
「サイ! 移動してアークエンジェルの陰に隠れて!」
『え? フレイ!? どうして君が……』
 サイから返ったのは驚きに満ちた台詞。だが、そんなものはフレイは望んでいない。
 フレイはすかさず、苛立ちを隠さずにサイを怒鳴りつけた。
「いいから早く! アークエンジェルの影へ! そこなら狙撃はされない!」
「勝手な指示を出すな!」
 ナタル・バジルール艦長が、艦長席からフレイを怒鳴りつける。
「アークエンジェルを盾にするだなどと……」
「一発でMAを撃破出来ない攻撃なんて、受けても戦艦は落ちないでしょ!」
 フレイはすかさず怒鳴り返す。その怒声を受け、ナタルは言葉に詰まった。
 確かに……ミストラルは、装甲や機体の耐久性に優れたMAではなく、むしろ脆弱な方に入る。なのに、敵の攻撃はミストラルに直撃しても撃破出来ていない。
 そして、装甲や耐久性では、アークエンジェルの方が遙かに頑強だ。
「……アークエンジェル、前進! サイのミストラルに接近しろ」
 ナタルは、操舵士のアーノルド・ノイマンに命を下してから、通信席のフレイを見た。
 フレイは通信機に取り付いて、サイに言葉を送り続けている。
「サイ、気を付けるのはもう一機のジンよ。接近を許したら終わり。狙撃してる方のジンは攻撃の威力が小さいから、アークエンジェルにとっては危険じゃないわ」
『待ってくれ。だから、どうして君が……っ!? うあっ!』
 通信機の向こう、サイの言葉が悲鳴と爆発音に遮られる。
 三発目の着弾。敵は、ミストラルへ着実にダメージを与え続けていた。
「今は戦闘中よ! 戦う事だけ考えて!」
 戦闘中でありながらもサイはフレイがブリッジにいる事を気にしているが、フレイはそれを許さずに戦闘に集中させようとする。
 その傍ら、通信機の一角を奪われた通信兵が、ナタルに視線を送っていた。フレイを止めるかどうかの判断を、無言で伺っている。
 無論、フレイの行為は許される事ではない。ナタルは、通信兵には何も指示は出さず、自分の席のコンソールから艦内に待機している陸戦隊に通信をつなげた。
「ブリッジに二名よこしてくれ」
『了解です』
 返答を聞いた後に通信を切る。そして、陸戦隊の兵士が来るまでの間、フレイは放置するしかないと、ナタルは考えた。が……無論、これは間違いである。
 この時、ナタルは通信兵に命じて、フレイが行っている通信を切る事が出来た筈だった。後になってその事に気付き、何故、フレイを放置したのかについてナタルは悩む事になる。
 ともあれ、兵士達が来るまでの間、放置されたフレイは自由にサイへ指示を出し続けていた。
「良い? ミストラルが居なくなったら、敵は必ずアークエンジェルに接近してくるわ」
『ど……どうして、フレイがそんな事……』
 深窓の令嬢だと思っていたフレイが、敵の動きの予想をまくし立ててくる。そのギャップに、サイは混乱していた。
 一方でフレイは、そんなサイの混乱など気にせず話すべき事を並べ立てる。
 兵士が呼ばれたのは知っていた。通信を強制的に止められなかったのは理由はわからないものの幸運だったと判断し、とにかく兵士が来るまでの間に伝えるべき事を伝えきろうと、フレイは思いつく端から指示を出す。
「戦艦なんて、MSに近寄られると何も出来ないに決まってるじゃない! それで何隻もやられてるのが今の戦争でしょ!? だったら、それを狙ってくるでしょ!?」
 フレイは、ニュースなどで漏れ聞いた連合軍の戦況を元に言ったのだが、サイの方はこれを実体験で知っていた。先の戦いで、アークエンジェルに肉薄してきたジンを倒したのは、サイなのだから。
『それは……わかるよ』
 サイの声が落ち着いてきていた。とりあえずフレイが通信を行っている事への混乱は収め、戦う事に集中する事が出来る様になって来たのだろう。フレイは、その事を悟って安堵する。まずは、サイが戦いに専念してくれない事にはどうにもならないのだから。
「敵が近寄ったら不意をついて。タイミングはブリッジに聞くと良いわ」
 ブリッジの扉が開いて、陸戦隊の兵士達が入ってきたのをフレイは横目で確認した。ナタルが、フレイを連れて行くように命じている。これで、始まったばかりの連合兵ライフも、多分お終いだ。もしかすると、サイに言葉をかける事が出来るのも……
「良い? サイが一機落とせば、この戦いは勝ちよ。それだけ……出来るわよね?」
『わかった。やってみせる』
 しっかりと答えるサイに、フレイは微笑む。きっと、サイはやってくれるだろう。
 なら、もう終わりにするか? しかし、兵士達はまだこちらに向けて動き出した所だ。終わりにはもう少しだけ余裕がある。フレイは静かに言葉を紡いだ。
「サイは私が守るから。絶対に地球まで……いえ、ずっとその先もよ」
 兵士達がフレイの傍らに立つ。二人がフレイを拘束する前に、フレイは通信機に向けてサイへの言葉を言い終えていた。
 その言葉は、かつてサイがフレイにいった台詞を言い換えた物だ。
「もう言い残す事はないわ。何処にでも連れて行って」
 少しは意趣返しが出来たかと満足そうに笑みつつ、フレイは二人の兵士達に両脇から挟まれる形で両の腕を掴まれ、ブリッジから連れ出されていった。
 フレイの背をチラとだけ見送り、それからナタルはサイに通信をつなげる。
「アーガイル准尉。彼女の事は後で説明する。今は、戦闘に集中して欲しい」
『……了解です』
 サイは、ナタルがフレイに替わって通信をしてきた事で、フレイに何かがあったのだと察しをつけていた。
 そもそも、民間人の筈のフレイが戦闘中に通信を送りつけてくる事自体、十分に異常な出来事だ。
 フレイに何があったのか……今は、それを知る術はない。サイは努力して、尽きせぬ疑問を頭の片隅に追いやった。今は、フレイに言われた通り、戦わなければならない時なのだ。
「ミストラル、アークエンジェルの陰に入りました」
 索敵手のジャッキー・トノムラが報告の声を上げる。
 これで、これ以上の狙撃を受ける事はない。ごく僅かにではあるが、ブリッジの中にもホッとした空気が流れた。
「アーガイル准尉、被害報告を。戦闘継続は可能か?」
 ナタルが通信で問いただす。サイは、僅かな時間をおいてから答えた。
『被弾3。コンピューターは中破判定出してます。装甲に破口多数。ミサイル3番4番の発射筒に認識エラー。左スラスター損傷推力低下してます。ですが……まだ行けます!』
 ミストラルは生き残ったとは言え、惨憺たる有様だった。
 全体を覆う装甲に大穴が開き、内部を露出させている。もし、これらの装甲が無い場所に当たっていたら……あるいは、これから当てられたら、ミストラルは容易く破壊されてしまうだろう。
 また、武装の対艦ミサイルの発射筒が二基、機体左に装備された物が反応しなくなっている。これは、急造で取り付けた配線が、何処かで切れたのだろう。
 それと、スラスターもおかしい。機動性が、かなり落ちている様だ。
 それでも、サイはやれると言い切った。そして、そんなサイに、ナタルは命令を出そうとしている……その事でナタルの胸が痛む。口元に自嘲の笑みが浮かんだ。
「改めて命令を伝える。ミストラルは、ブリッジからの指示に従って移動の後に待機。敵の接近を待って、強襲しろ」
 それは、フレイの出した指示そのままだった。
 越権行為故に、それに耳を貸さないという判断を下したくはある。無法の行いが認められてはいけないという、強い忌避感があった。しかし、他に策が見えない以上、ナタルにはフレイの策を無為に否定する事が出来ない。
 反対するだけではなく、何か実際に動く策を考えなければならないのだ。
 が……ミストラルを浮き砲台として利用し、連携を取りつつ砲撃戦で戦う等と、比較的に硬い戦術しか思いつかない辺りに、ナタルは自身の柔軟性の無さを痛感していた。
 そして、その戦術は、狙撃で一方的に攻撃されるという事実によって、無効と証明されてしまっている。今のナタルに他の策は思いつかない。
「……私は卑劣な事をしているな」
 ナタルは、誰にも気付かれる事無く、小さな呟きを発した。
 軍法違反である事を知りながらフレイを放置し、言うだけ言わせてから、それを違反であるとして逮捕拘束させた。
 ナタルには、フレイを止める事が出来たはずなのだ。あの時は、それに気付かなかったのだと言い訳は出来る。しかし……現実は、ナタルを惨めにさせた。
 結局、全てをフレイに丸投げしたに等しい。艦長としての資質について悩みたい所であったが、今は戦闘中であり、そんな時間はなかった。

 

 

 狙っていたミストラルは、艦種不明の戦艦……アークエンジェルの影に消えた。
 ジン長距離強行偵察複座型に乗る偵察小隊隊長は、思わず舌打ちをする。
「ちっ……しとめ損なった。思った以上に威力が無いな」
 何を考えてこの威力なのかと、隊長は忌々しく思いつつ、兵器廠の連中を呪った。
 狙撃ライフルの威力の無さには定評がある。つまり、役立たずという意味で。
 無論、狙撃ライフルが失敗作かと言えばそうでもない。命中精度は、他の射撃兵器とは比較出来ない程に高められているのだ。
 高い命中精度を活かして、敵機の脆い部分を正確に撃ち抜けば、威力が無くても良い……実際、そうすれば戦艦などを除く大概の敵は撃破出来る。
 パイロットへ着弾の衝撃によるダメージを与えられるコクピット、スラスターや武装などの破壊しやすい場所等を狙撃し、敵MAを撃破する事は可能だ。
 また、強行偵察時に邪魔となる敵の監視衛星やレーダー施設を破壊して一時的に使用不能に陥れるのには必要にして十分な装備ではある。
 しかしそれは、敵から身を隠して、慎重に狙いを定める余裕があっての話。今の様に、艦砲射撃を回避しながらでは、そこまで正確な射撃を行うのは難しかった。
 所詮は、真正面から撃ち合う機体ではないと言う事か。
 それでも、あと一発か二発撃ち込めばミストラルを落とせただろうが……何にせよ、獲物に逃げられたとあってはどうする事も出来ない。
「隊長。目標を見失いましたが?」
 後部座席の部下……この機体の目とも言うべき偵察要員が聞いてきた。彼が出す位置観測データが無ければ狙撃は出来ない。
 今まではミストラルを追っていたが、今は既にその姿を見失っている。
 ならば、新たな敵に狙いを絞るべき。隊長はそう判断し、後部席へ指示を送った。
「観測目標を艦種不明の戦艦に変更。砲の詳細データと対空火器の位置を割り出せ。突入する僚機への支援を継続する」

 

 

 アークエンジェルのブリッジに、被弾を知らせる警報が鳴った。続いて、火器管制についていた兵が状況報告の声を上げる。
「バリアントに被弾! 損傷軽微ですが、砲身に歪みがでています!」
 ジン長距離強行偵察複座型からの狙撃により、アークエンジェルは地味な損傷を重ねていた。艦を揺るがすほどの物ではないので、警報がないと気付かないだろう。それでも、薄紙を剥ぐ様にして、少しずつアークエンジェルの戦闘力は削られている。
 アークエンジェルの装甲は狙撃ライフルによる攻撃を十分に防げるが、砲の砲身などの十分に装甲化出来ない部分はあるわけだ。砲を破壊するほどの威力が無くとも、砲身に当たれば歪みが出るし、そうなれば弾もビームもまともに飛ばなくなる。
「支援戦闘に長けているな」
 ナタルは、敵の戦いの巧みさに呻いた。ミストラルが隠れれば、戦艦の装甲を抜けない狙撃ライフルでは戦いようが無くなるという予想は、甘い物だったと言う事だ。
 しかし、砲への直撃があっても、それを破壊出来る程の威力はない。命中精度に影響は出るだろうが、そこまでだ。その辺りはまだ安心が出来た。
 また、敵に対し正対している為、艦後方に位置するミサイルポッドが狙われる事はない。ここを狙われて、ミサイルの誘爆を起こされると損害が大きくなる。もっとも、ミサイル発射の瞬間を狙う様な攻撃をされない限りは、ここも低威力の攻撃で破壊される事はない。
 だが、敵に攻撃出来る箇所が他に無いかというとそうではなかった。
「イーゲルシュテルンに被弾! 動作停止!」
 対空火器であるイーゲルシュテルン等の小型火砲類は、艦外に露出しているにも関わらず、装甲は比較的薄い。敵を捕捉する為に素早く動かさなければならない為、動きが鈍重になってしまう重い装甲を施す事は出来ないのだ。
 壊れやすい前提で置かれている為、破壊されても艦自体へのダメージには繋がらない様になっているが、敵に振り向けられる火線が一つ減る事は、艦の防空能力を大きく損なう事を意味していた。
 防空能力を喪失していくアークエンジェルに、通常型ジンが接近してきている。最初は慎重だった動きは、今や大胆にと言って良いものとなっていた。当然、その接近する速度は速まっている。
「ミストラルを、予想される最適な迎撃地点へと誘導しろ」
 索敵手のジャッキー・トノムラに、ナタルは命じた。敵の最接近の時は近い。それまでに、ミストラルを迎撃地点まで誘導しておかなければならない。
 だが、可能ならば、その前に……
「弾幕薄いぞ! ミストラルでの迎撃になど頼ろうと思うな! 接近前に落とせ!」
 ナタルの叱咤の声が、ブリッジに響いた。

 

 

「……行けるぞ!」
 ジンのパイロットは、乗機を疾駆させながら、沸き上がる興奮に叫んでいた。
 アークエンジェルは、ミサイルと対空機銃で弾幕を張りながら、強力な火砲で攻撃をくわえてくる。
 乗機の周囲で炸裂するミサイル。漆黒の宙に光の線を描きながら、かすめる様に飛び去っていく対空機銃の曳光弾。見た目ではわからないが、レーダーは高速で擦過する砲弾を捉えており、警報を発して知らせてくれる。
 しかし、その全てをもってしても、乗機を止める事は出来ない。
 隊長は、かわしにくい攻撃を的確に潰していってくれている。その支援を受けている彼は、まるで遮る物のない宙を進んでいるかの様だった。
「もうすぐだ! もうすぐ!」
 敵を蹂躙する事を欲する野性。勝利を求める欲望、復讐を叫ぶ怒り、それらが綯い交ぜとなった彼には、アークエンジェルはそこに横たわる獲物でしかなかった。
 後は、獲物の無防備な横腹に牙を埋め込むだけだ。
 コックピットのモニター。照準は、アークエンジェルの艦橋を捉えている。
 まだ……もう少し。重機銃を撃ち込むのは、もう少し近づいてからだ。
 大した距離ではない。彼の乗機は、この間も宙を駆けている。遮る物は何もない。
「行ける……」
 呟く彼の脳裏に、仲間の姿がよぎった。まだ日付も変わっていない……何時間か前に、連合軍の攻撃を受けて死んだ仲間。
 馬鹿な奴だった……最後に彼をかばって死んだ位に馬鹿な奴だった。
 それだけではない。連合軍の卑劣な罠で沈められた艦にも仲間は大勢いた。
 これは復讐なのだ。仲間の弔いなのだ。
 それを止められる者は居ない。
「畜生! みんな殺してやる! ナチュラル共、みんな殺してやるぞ!」
 ジンはついにアークエンジェルを有効射程内に捉えた。
 ジンは重機銃をかまえる。そして、パイロットはトリガーに指を当てる。
 その時……艦橋の向こうから、MAが一機姿を現した。

 

 

『行け!』
「了解!」
 ブリッジから届いたナタルの声に、サイは隠れていた艦橋の影からミストラルを発進させた。
 ミストラルのメインカメラが、宙で動きを止め重機銃を構えるジンの姿を捉える。
 撃つタイミングは今しかない。
「落ちろ!」
 ミストラルに装備された重粒子砲がビームを放つ。撃ち放たれた光条は、まっすぐに伸びてジンの左脇をかすめた。
 その結果を確認もせず、サイは続けて対艦ミサイル……発射可能な1番2番を射出。メインカメラ中央に捉えられたジンに向かい、ミサイルはリモートコントロール用のコードを引きながら、自動的にその進路を調整しつつ突き進んだ。
 が……ジンの左腕の辺りで発生した爆発が、ジンの体勢を右に大きく崩した。
 メインカメラの可動範囲内からも逃れ、ジンの姿がモニターから消える。
「やばい!」
 サイはすぐさまミストラルを右に向けてその動きを追おうとした。だが、左スラスターの出力が落ちていたミストラルは、右を向くのに時間がかかる。
 その間、目標を見失った対艦ミサイルはそのまま突き進んでいき……ミサイルは外れた。既に、ジンを再び追う事は出来ない位置まで、ミサイルは飛んでいってしまう。
 その頃になって、ミストラルはようやくジンを再びメインカメラに捉えた。
 ジンは、左腕を付け根から失い、背後のバックパックから煙を盛大に吹き出している。
 重粒子砲が左腕と背部バックパックの一部に当たり、恐らくはスラスターが誘爆を起こしたのだろう。爆発は、ジンを押しのけ、ミサイルの直撃から救ったわけだ。
 ミストラルの貴重な武装が無駄になった。しかし、重粒子砲がまだある。
 ジンは、まだ爆発の衝撃から立ち直っておらず、無為に宙を漂っている。まだ、攻撃のチャンスは続いていた。
「今度は直撃させる!」
 サイが照準にジンを捉える。そして、トリガーを……
 が、一瞬早く、コックピットを揺るがす衝撃と同時に警報が叫んだ。
「重粒子砲に被弾!? さっきの狙撃の奴!」
 モニターに表示される警告メッセージは、重粒子砲が使用不能になった事を教えていた。
 状況は明らかだ。ついさっき、ミストラルを撃墜寸前まで追い込んだ敵が、仲間の支援の為に重粒子砲を狙い撃ったのだ。
 最後にして最大の武器を失ったサイは、慌ててコンソールを操作した。
 モニターに機体の状況などと一緒に、使用可能な武器のデータが並ぶ。
「武器! 無いのか!?」
 有るのは機関砲。他には、故障して射出出来ない対艦ミサイルが二基。
 モニターの中、ジンは最初の攻撃による動揺から立ち直りつつ有る様に見えた。また、この瞬間にも新たな狙撃が行われ、ミストラルを貫くかも知れない。
 サイは焦り、武器を求めた。
 武器は無いのか? ……本当に無いのか?
「く、くそぉ!」
 サイは無我夢中で、使えない武器を無理矢理使おうとした。シミュレーションでは有り得ない、最も原始的な方法で。
 コンソールを叩いて、対艦ミサイルの安全装置を解除。元来、ミサイル発射と同時に自動で解除される物だが、今は発射出来ないので手動解除した。
 直後、ミストラルの作業アームで、発射筒を機体からむしり取る。
「どうせ使えないんだ!」
 サイは声を上げながら、ミストラルの作業アームを使い、発射筒に納められたままのミサイルをジンに向けて投げつけた。
 体勢を立て直そうとしていたジンは、投げられたミサイルに対し、とっさに銃を向ける。また、ミストラルも同じく、ミサイルに機関砲を向けていた。
 同時に射撃が行われる。どちらが当てたのかはわからない。直後に爆発したミサイルが、ジンとミストラルの間で爆発し、両者の視界を遮った。
 セオリーなら、ここでミストラルは位置を変える為に進路を変える。
 しかし、サイはミストラルをそのまま前進させた。どうせ、スラスターの不調により、小回りの利いた動きなど出来はしないのだから。
「もう一発!」
 前進しながら、残る最後のミサイルの安全装置を解除。どうせ、他の武器は無いのだ。
 再び発射筒ごと機体から引きちぎったそれを、ミストラルに手槍のごとく構えさせて、サイは先の爆発の向こうにいたジンへと突っ込む。
 爆発でミストラルを見失ったジンは、セオリー通りならば逃げているだろうミストラルを、前進して追おうとしたのだろう。ミストラルの視界が爆発の影響から回復した時、ジンは目前に迫っていた。
 ジンは、ミストラルの急接近に、慌てて重斬刀を抜こうとしていた。しかし、その動作が終わるより早く、サイの攻撃が行われる。
「これで!」
 ミストラルの速度を乗せて、ミサイル発射筒がジンに叩きつけられた。
 発射筒の中で信管を激発されたミサイルは、与えられた性能そのままに爆発する。
 瞬時に、ジンとミストラルはミサイルの爆発の中に呑み込まれた。

 

 

 隊長は、目の前で起こった出来事を、信じられない気持ちで見守っていた。
 手負いのミストラルが、相打ちとは言え、格闘戦でジンを撃破したのだ。
 偵察型ジンの高性能なカメラが、コックピットの有った場所に大穴を穿たれて宙を漂う、ジンの残骸を捉える。
「……馬鹿な。そんな事が」
 MS。ZAFTの新兵器。連合のMAを凌駕する、最強の兵器……それが、旧式も良い所のMAに撃破された。
 しかも、そのMAは、事前に自分が撃破寸前まで追いやっていた機体。
「俺は……俺は! 帰るべき艦を失い、部下を二人も失ったと言うのか!? 連合のゴミのようなナチュラルを相手に!」
 怒りに駆られて叫ぶ。その怒りは、半ばは自分に向けられていた。
 自らの無能への怒り。隠れられる前にもう一撃……いや、ミストラルの重粒子砲への狙撃の時、攻撃力を削ぐ事より、仕留める事を選択していたら。
 それは、本来ならばミスとも言えない物であるはずだった。
 ミストラルの様な雑魚が少々生き延びても戦局に関わる事はない。誰もがそう考えるであろうし、隊長もそう判断していた。本来なら、ミストラルがあがいてもMSは倒せないはずだった。
 しかし結果は、部下の戦死という形で現れている。敵を侮った……このミスを、どう償えばいい?
「隊長!」
 後部座席からの声に、隊長は我に返る。
 部下の声は、やはり怒りに満ちていた。しかしそれは、純粋に敵に向けての怒りだ。
「行きましょう隊長! まだこの機体は戦えますよ!」
 乗機はまだ戦える。まだ、戦闘は続いている。
「そうだ……行くぞ! お前の命、預かる!」
「預けます隊長!」
 隊長は、アークエンジェルめがけて偵察型ジンを飛ばせた。部下のジンの為につけた道を辿る様に、アークエンジェルからの攻撃をかいくぐって。
 隊長は、回避機動と狙撃を交互に繰り替えし、砲火を避け、潰せる武装は潰して防空力を削り、アークエンジェルの懐へと切り込んでいく。
「まずは武器を!」
 目指したのは、先に撃墜された部下のジン。ジンが装備していた武器があれば、偵察型ジンでも艦を落とせる。直掩の居ない戦艦など、敵ではない。
「銃は有りませんよ!?」
 後部座席から、偵察要員が報告する。
 部下のジンは、最後の瞬間に武器の持ち替えをしようとしていた。爆発に巻き込まれて、重機銃は何処かに飛ばされたらしい。
「重斬刀があれば十分だ! だが、一応、周辺の空間を探しておいてくれ。武器があるに越した事はない」
 指示を受けて、部下がセンサーを働かせ始める。重機銃は小さいから探し難いが、偵察型ジンのセンサーならば見つける事が出来るかも知れない。
 それに、部下のジンは重斬刀は持っている。それが有れば、戦艦の装甲を穿つ事は可能だ。
 近づいてくる、腹に大穴を開けて漂う部下のジン。
 ジンを撃破した対艦ミサイルは、対空ミサイルとは違い直撃しなければ意味がない、だが強力な装甲貫徹力を有している。直撃さえすれば、威力はこの通りだ。
 ジンの傍らには、ミサイルの爆発に巻き込まれたミストラルが力無く漂っていた。無力なその残骸を、隊長は無視する。
「武器を借りるぞ!」
 伸ばした偵察型ジンの手に、部下のジンが持っていた重斬刀が握られる。
 その時、凄まじい衝撃がコクピットを揺るがした。
 死んだと思われていたミストラルの機関砲が火を噴く。装甲表面を焼かれ、砕かれた装甲の穴から中を露出させ、武装のほとんどに作業アームさえもが引きちぎれ、残骸にしか見えないミストラルが放つ無数の弾丸が、正面から偵察型ジンを襲う。
 通常のMSには力不足なこの機関砲も、軽装の偵察型ジンには十分な効果を及ぼした。
 偵察型ジンのコクピット。モニターが警告の赤文字で埋まっていく。響き渡る警報は、機体の断末魔だった。
「こんな……こんなMAに」
 再び敵を侮った。隊長は自分のミスに気付いて叫ぶ。
「すまない! 俺が……」
 その言葉が形になる前に、コクピットハッチを貫いた弾丸が、全てを打ち砕いた。

 

 

「待て!」
 整備員の少年が、上半身だけのシグーを駆ってザクレロを追う。
 少年は知らなかったのだ。相手が狩りの獲物ではなく、魔獣である事を。自分が狩人ではなく、無力な獲物である事を。
 速度は、圧倒的にザクレロが上だった。故に、シグーはどんどん置いて行かれる。
 MSの小回りが利く点を活かして、敵が通過するだろう予測地点へ最短コースで移動し、先回りをする……といった小技を使う事も知らない少年は、単純にザクレロを追って飛行を続けていた。
「卑怯だな……逃げるのか!」
 相手を侮る台詞も出る。しかし、そんな余裕があったのは、ザクレロに十分な距離を開けられるまでの事だった。

 

 

「そろそろ、良いわね」
 マリュー・ラミアスは、ザクレロのコクピットで呟いた。
 敵のシグーはかなり後方に位置しており、その距離は十分に開いている。余裕を持ってターンし、攻撃を仕掛けられるくらいに。
「行くわよザクレロ! 反撃開始!」
 声を上げて操縦桿を引く。ザクレロは機首を上げてロールを開始する。
 そうしてターンを行ったザクレロは、その進路をシグーに向けて突き進んだ。
 モニターの中、シグーがどんどん近寄ってくる。ザクレロには気付いているのだろう、銃を撃ってきているが遠過ぎてかすりもしない。
「……ひょっとして、素人? まさかねー」
 思わず出た疑問の呟き。サイがシミュレーションでパニくった時の動きに似ていたからなのだが……
「ちょっと! そこのシグー! 乗ってるのは民間人って落ちじゃないでしょうね!?」
 不安になったマリューは、共用回線で問いかけてみた。しかし、返答はない。
「無視されちった……まあ何にしても、素人だからどうって事もないのよね」
 現に敵は目の前にいるのだから。動きが素人っぽいからといって、行動を変える必要はない。民間人なら、まず降伏勧告くらいしたかなという程度の話か。
 何にせよ、もう全ては遅すぎる。シグーは有効射程内に入った。
「悪く思わないでね」
 マリューは、ザクレロの拡散ビーム砲の引き金を引く。

 

 

『ちょっと! そこのシグー! 乗ってるのは民間人って落ちじゃないでしょうね!?』
「え? 敵の声!?」
 通信機から溢れたマリューの声に、少年は戸惑った。敵から声をかけられるなんて思いも寄らなかったわけで……どうしたらいいのか迷ってしまう。
 しかし、僅かに考えて、結論を下した。何にせよ、敵は敵なのだから答える必要はない。ラクス様に害を与える者の言葉なんて、聞く必要はない
 少年は、高速で接近してくるザクレロに向け、銃を撃ち続けた。
 銃弾はなかなか当たらない。彼が見たビデオなどでは、MSが銃を撃つ度に、MAや戦艦が必ず落ちていたのに……ザクレロは、まるで撃たれていないかの様に突っ込んでくる。
「落ちろ! 落ちろよぉ!」
 少年の叫びに耳を貸さず、ザクレロはその凶悪な牙を剥き出しにして襲いかかってくる。
 まるで、哀れな生け贄を呑む魔獣のごとく。
 少年の胸から高揚感は消えていた。ラクス様を守る為の正しい戦い……そんなものは、この魔獣の前では何の意味も持たない。
 ザクレロは……魔獣は貪りに来たのだ。
 少年の肉も魂も全て。
「あ……うわあああああああっ!」
 モニターの中、接近するに連れてその大きさを増してくるザクレロに恐怖し、少年は悲鳴を上げていた。
 恐怖が全てを覆い尽くしていく。貪られる。
 心の中から何もかもを剥ぎ取り、何もない少年へと戻してしまう。
『……大丈夫ですか!? あの・・・!?』
 通信機から少女の声が溢れていたが、少年はそれを聞く事さえ出来なかった。
 震える指で引いた引き金。発射された弾丸は、ザクレロの顔に当たって跳ねる。
 そして……ザクレロの口腔が光り輝くのを見た。
「!? ぐあっ!? ぎ……」
 機体を襲う激しい衝撃。コクピット内に満ちる警告音。モニターに止めどなく流れるエラーメッセージ。
 ザクレロの拡散ビームの一撃は、シグーを完全に捉えていた。
 有効射程内でも比較的遠距離から撃たれたビームは、シグーに当たる頃には拡散しきって大きく威力を落としていたが、それでもシグーを焼くには十分な効果がある。
 激しく揺れる機体の中で、少年は全身を打った痛みに呻きながら、呆然とコクピットの中を見回した。
「……ここは……MSの中?」
『しっかりしてください! 大丈夫ですか!?』
 呟く少年の耳に、ラクス・クラインの嗚咽混じりの声が聞こえる。
 答えず、少年は思い出していた。自分が、ラクスを守る為に、このシグーに乗っている事。そして、本物の戦争に参加してしまった事を……
「あ……嫌……だ。何で!? 何でこんなのに乗ってるんだよ!?」

 

 

『あ……嫌……だ。何で!? 何でこんなのに乗ってるんだよ!?』
 脱出ポッドの中、通信回戦を繋ぎっぱなしだった為、ラクス・クラインはシグーの中の少年の叫びを全て聞かされていた。
 恐怖の悲鳴。苦痛の叫び。そうまでして自分を守ってくれる少年に、ラクスは泣きながら声をかけていた。
 そして……ラクスは、少年の疑問を聞く。
「え?」
 ラクスは、少年の疑問の意味を一瞬理解出来なかった。
 ラクスを守る為……そう言っていた少年が、今はその事を忘れたかの様に疑問を叫んでいる。
『嫌だ……死にたくないよ! 動けよ!』
 少年は、シグーを動かそうとしているらしい。しかし、動かないのだろう。声は焦りをましていく。
『動けよ! どうしよう……直せるかな。ダメだ。外に出ないと。道具もない……どうしてコクピットに居るんだ!? 直せない……ここに居たんじゃ直せないよ!』
 少年の声が泣き声に変わる。
『出して……ここから出してよ! 主任さん、助けて……! 嫌だ、ここには居たくない! ここじゃメカニックになれない! 出して! うわあああああっ! また! また来る!?』
 泣き声から変わって悲鳴。ガタガタと暴れる様な音。狭いコクピットの中で、逃げようとしているのか。
 一撃離脱をしていったザクレロが、戻ってきて再び攻撃をかけようとしているのだろう。少年は為す術もなく、棺桶と化したシグーの中で泣き叫ぶ。
 ややあって、先ほども聞いた衝撃音が響いた。少年の悲鳴が大きくなる。コクピット内の警報も音量を増した。
『死にたくない! 嫌だ! 僕はメカニックになるんだ! なるんだぁ! 主任さんと約束したんだ……直せるのに! ここにいなければ、僕は何度でもこのMSを直せるのに! メカニックになって直せるのに……どうして!?』
「やめ……て……」
 ラクスは、止めどなく溢れ続ける少年の悲鳴に、抗う様に呟いた。
 ラクスの全身が震え出す。その震えを押さえる為、ラクスは自分の身体を強く抱きしめる。
 今、少年の叫びを聞いて一つの考えに至る事を、ラクスは本能的に避けようとしていた。しかし、考えてしまう。どうしてもそこへと至ってしまう。
 ラクスを守ると言っていた少年。
 ラクスを守ると言っていた、シルバーウィンドの人達。
 死に際して、ああも泣き叫ぶ少年。
 死んだシルバーウィンドの人達。
 確かに……シルバーウィンドの人達は、死に際しても何も言わなかった。でも、実際はどうなのか? 喜んで死んでいった様にも見えた。でも、本当は?
 本当は……誰もが少年と同じだったのではないだろうか? ラクスは理解する。自分が死に際せば、少年と同じように恐れ泣き叫んだだろうから。それが普通だと思うから。
 誰もが、死にたくないと……生きたいと……夢があるのだと……言葉にはせずとも、そう叫んで死んで言ったのでは無いか?
 自分を助ける為に……ラクス・クラインを助ける為に。
 幾百幾千もの人々が、無言の内に叫びながら死んでいった。ラクス・クラインの為に。
「私……」
 声が震える。
 自分の命の為に。ラクスの為に。ラクス・クラインの為に。
“歌って……歌ってください”
 声が聞こえる。
「何故、私なのですか?」
 何故、人は命を捨てて自分を生かしたのか?
“歌を……ラクス様の歌を”
 聞こえぬはずの声が囁く。
「どうすれば……」
 どうすれば、失われた命に報いる事が出来るのか?
『ああっ! 助けて! 母さん! 助けてよ母さん! かあ……』
 通信が途切れる。
 脱出ポッドの窓の向こう、小さな光が瞬いて消えた。
 その光を見て……ラクスは口元を笑みに曲げる。
「あは……あはははははっ! 私を守るですって!? てんでダメじゃない!」
 声を上げ、身を捩ってラクスは笑う。笑い続ける。
「死なない人じゃないと……もっと強くて、死なない人じゃないとダメですわ。私を守ってくれる方は……」
“ラクス様”
“ラクス様”
 声なき声がざわめき、その名を崇める様に唱える。
 その中でラクスは笑う。涙を溢れさせながら笑う。
「もう……こんな事は起こさせない様な、強い人じゃないと」
 少女の心は歪み、砕けかけていた。
 少女が至ったのはただの逃避である。目の前の人の死から逃れる為、そんな状況が起きない事を願っていた。
 正義でも悪でもない、ただラクスを守る為に人が死なない世界を願う。それは、ラクスの敵となる者全てを徹底的に殺し、破壊し尽くした世界。それを行いながらも、ラクスの周りでは人の死なない世界。
 ラクスの笑い声が、歌声へと変わる。人々に平穏を与える歌姫の歌……ラクスを脅かす者の居ない平和を願い、その願いの為に魂を炉にくべる事を誘う歌声。
 願えば、それはかなったかもしれない。今日のシルバーウィンドの様に。
 しかし、少女の心が歪みに耐えかねて砕ける前に、その魔獣は姿を現した。
 脱出ポッドを衝撃が襲う。
 揺れる脱出ポッドの中、窓の外にラクスはそれを見た。空を睨み、全てを食らわんと顎を開く魔獣……ザクレロの姿。
「……ひっ!?」
 それを見た瞬間、ラクスの心に衝撃が走った。
 恐怖……眼前に現れたのは、恐怖そのもの。暗闇から現れて、全てを貪り食らう魔獣。原初の世界から迷い込んだ、根元的恐怖。
 それは、ラクスの心を圧倒的な恐怖のみで塗り潰した。歪んだ願いは魔獣の牙に裂かれ、声なき声は魔獣の叫びに掻き消される。死者の嘆きも又、魔獣の眼光に射抜かれては、その口を閉ざすより他はない。
 全ては些細な事。思い悩む必要はない。魔獣にかかれば、ラクス一人……いや、ラクスを守ろうとする数千、数万、数億の戦士とて、ただ貪られる時を待つ肉塊に過ぎない。
 恐怖が、ラクスの心に強くそう刻みつける。
 しかし、その恐怖はラクスにとって心地よいものですらあった。魔獣の牙に身を委ねれば、思い悩む事は無い。恐怖に震えながら、噛み砕かれる時を待てば良いのだ。
 ラクスは狂気を忘れ、ただ恐怖のみに震え……意識を失った。