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クルーゼ生存_第38話

Last-modified: 2013-12-22 (日) 02:38:50

 無限旋律によって始まった前奏曲、オーケストラピットの見えない構造の祝祭劇場では
、一気に観客を舞台神聖祝典劇パルジファルの世界に引き込むことができる。
 1800人収容の小さな劇場、そしてほぼすべての客が『信者』という状況なのだ。だから
英語が世界共通語となった現在、少し名の知られた劇場には席毎にオペラの言語を英語訳
したものが出るディスプレイが備え付けられているが、ここにはそんなものはない。二昔
前のドイツ語で書かれた台本は、ドイツ語がわかる人間にも難解である。たとえば21世紀
の日本人が歌舞伎を初見で、台詞の内容を聞き取るのが不可能に近いように。
 紹介されたホテルでパルジファルのリブレットを借りたシンは、自分がコーディネータ
ーだったことに感謝した。とりあえず5時間近いオペラの台詞を、英語であらかた覚える
のに一時間程度ですんだのだから。ただキリスト教に素養のないシンには、物語の筋はわ
かったが、意味するところはほとんどわからなかった。
 幕が開いて、担架で運ばれてくる漁夫王の名前がアンフォルタス。シンはセイバーのビ
ーム砲の名前の由来をこれで知った。ただ、女性の色香に惑わされて、聖人になろうとた
くらみ自ら去勢した男クリングゾールが奪った聖槍によって性器を傷つけられ痛みに苦し
む男性というのは、攻撃用の兵器の名前としては不適当だと思った。
 そして白鳥を射落として、無邪気に登場するタイトルロールのパルジファル。彼がこの
時点で自分の名前も覚えていないというのは、台本を読んで知っていた。
 母親の名前しか覚えていない主人公、ヘルデンテナーという英雄の声を持つ歌手が演じ
るというのは、レイから聞いた。朗々として美しいが、馬鹿に聞こえる。これが歌での演
技というものなのだろう。
 そしてアンフォルタスに傷を負わせる原因となった女性、クンドリがパルジファルの母
親の死を告げる。
 聖杯城の騎士グルネマンツはこの愚かな若者を『聖なる愚者』かもと思い、城へ伴う。
城での正餐式、モンサルヴァートの聖杯城の先王ティトレルに促され、正餐を傷に苦し
みながら行うアンフォルタス。
しかし覆いを取った聖杯の輝きは、漁夫王の傷に痛みを与えるだけであった。
これは、聖槍で傷つけられた癒えない怪我を持つアンフォルタスには、
聖杯の奇跡の力が逆に苦痛なのだろうと、シンは理解した。特に宗教教育は受けていない
が、聖なるものと穢れたものの対立くらいは昔の小説も少しは読んだので知っている。 
そしてその儀式とアンフォルタスの苦しみになんの感情も抱かないパルジファルが、聖杯
城を追い出されて、一幕が終わった。
 この作品では、拍手をしてはいけないと作者のワーグナーが書き残しているから、それ
に従うものだとレイに聞いていたので、幕が下がると、他の人に従って席を立った。
 祝祭劇場の幕間は一時間あり、そのあいだ、いったんはすべての観客を外に出す。
 なのでシンとレイは連れ立って、劇場の向かいのカフェに入った。男性はタキシード、
女性はロングドレス。いま戦争をしているとは思えない優雅な風景だ。年配の富裕層がメ
インだが、学生と思しきシンたちと同年代の者もいる。ホテルの手配でタキシードが借り
られてよかったと思いながら、二人はセルフサービスのカフェで四角いりんごのケーキに
泡立てた生クリームをつけたものとコーヒーを注文して、席に座った。
 シンが山ほど生クリームをとったのは、貸し衣装を着てみたとき、レイよりベルトの穴
がひとつ細いところで丁度だったからだ。身長は同じだし、肩幅や胸幅、腰周りもかわら
なかった。
 体を大きくしたいという目的でたっぷりとった生クリームだが、美味しさに舌を巻く。
旧ドイツ地方では、脂肪分の高い生クリームに沢山の空気を入れて泡立てる機械が昔から
普及しており、こくがあるが爽やかな口解けの生クリームと果物主体のケーキを組み合わ
せるのが常であった。
 それに舌鼓を打ちながら、シンは一幕の疑問点をレイに問う。
「なんかさあ、出てくる登場人物、みんな自分勝手じゃないか? そういうふうに設定さ
れてるパルジファルはわかるんだけど、クンドリとかグルネマンツ。クンドリはキリスト
が処刑されるときに嘲笑った女ってことらしいけど、その女がいったんは聖杯王を誘惑し
ながら、いまは彼の傷を治そうとするとか、何でかパルジファルの母親が死んだことを知
ってるとか。グルネマンツは勝手にパルジファルに期待して、一回期待はずれなら追い出
すし」
「俺たちにはご都合主義に見えるが、キリスト教が世界を支配していた時代の物語だから、
聖杯と聖槍にははかりしれない価値があったということだろう。ただ、初演の時代からこ
の作品は『異端の匂いがする』といわれている。この舞台を見て、正当なキリスト教の教
義と思うのは間違っているだろうな」
「なんか、難しいな」
 シンはそう呟いて、ケーキを食べた。
 すると隣の中年の上品そうな夫婦が話しかけてきた。
「言葉の一つ一つの解釈をするより、我々は舞台と音楽が一体となった世界に身を投げ出
して、何を感じるかが大事ですよ」
「若い方は、難しく考えがちですからね。バイロイトは初めてのようですし、素直にお楽
しみなさいな。これだけの歌手と演奏家、指揮者が揃うのは、ここだけなんですから」
 優しく微笑まれる。両親を亡くしているシンは、年上の男女に弱いところがある。
「何を感じるか、ですか」
「ええ。芸術鑑賞の基本です。そのあとに理論、そして最後はやはり感性です」
 レイは我が意を得たというように頷き、シンはどうしても考えを捨てられなくて、ぎこ
ちない表情で受け取った。
「次の幕までの15分ごとに、ファンファーレが鳴るから、行ってみるといい」
 紳士がシンとレイの空になった皿を見て言う。
「ファンファーレの時に塔から写真を撮ってますよ。明日の朝、写真屋に行けば、買うこ
とが出来て、よい記念になります。バイロイト名物ですね」
「ありがとうございます」
 レイもこれは知らなかったようで、礼を言った。
 このあと二人は庭園を散歩して時計台に行ったが、シンのコーディネーターの証である
赤い目にあからさまな反応をする人はいなかった。念のため、さすがに銃はNGだが、紙製
のナイフを二人とも携帯している。使い捨てで、一本で二人の人間の頚動脈を切り裂ける
武器だ。
 ニュルンベルグの基地では、「あの赤い目で見えてるのかね」という陰口も聞こえたも
のだ。あの基地ではユーラシアの軍人とザフトの軍人が表向きはうまくやっているように
見えた。レイは二人はそこに入り込んだ『最新鋭機に乗った、ユーラシアではまだ未成年
のザフトの赤服』だから、自分たちがいないほうがナチュラル、コーディネーター両方に
とって平和なのだろうと言う。シンはオーブでも感じていた区別という名の差別を思い出
して、厭な気分になった。プラントで憧れられるザフトの赤服になったら、それを否定、
畏怖する社会もある。
 でも時計台でファンファーレが幕間残り15分の時に三回鳴って、15分ごとに一回ずつ増
えるのだと周囲から聞いたら、それだけでお祭り気分になれた。

 
 

二人の席は平土間の真ん中前列5番目という、非常にいい席だったので、ぎりぎりに劇
場に入ったら、同じ列の人が座らずに立って真ん中の観客が来るのを待っていた。シンと
レイはありがとうございますと言いながら、席にたどり着いた。近代的な劇場なら、避難
などの関係で真ん中に通路があるのだが、ここにはそんなものはなかった。真ん中の席の
人は、早く席について、他人に迷惑をかけないようにする。それがマナーなのだ。
 二幕ではいわゆる悪役のクリングゾルが登場する。聖杯の騎士として勤めたものの、純
潔を自分の意思で守りきれないと思い、自宮したもののそれでは聖杯に受け入れられず、
魔法の城を作った男だ。
 彼はパルジファルを花の乙女達――彼女らが性欲と官能のシンボルであるのは、シンに
もわかっていた――の園に導く。きれいな歌声としなを作った演技で、ステラを思い出し
てしまった。彼女はきれいな声を持っていたが、男に媚びることは知らなかった。シンに
胸乳を見られても平気な、純情を通り越して世話の必要な少女だと思った。でも、彼女は
ガイアのパイロットだ。アーモリーワンでザフトの兵士の喉笛をナイフで掻き切り、モビ
ルスーツを強奪した。そして、兵士としてはシンと会った洞窟を破壊するのに、なんのた
めらいも覚えない。隊長が彼女らは連邦の強化人間だろうと言っていたが、兵士として精
神的にステラに劣っているというのは、シンにとって辛い考えだった。
 さっきの夫婦のアドバイスに従って、音楽と舞台だけ、なにも考えないように努めた
 シンには絶対音感があって0.1ヘルツの音の狂いが、不快感をもたらす。子供のころバ
イオリンを習ったときについたものだ。手先が器用で筋力も強いコーディネーターは、子
供でもバイオリンの弦をきっちりと押さえることは簡単だったし、絶対音感で常に正確な
音を出すことが出来た。しかしシンにはどうも楽しくなくて、3年ほどで止めてしまった。
妹のマユのピアノはシンよりはましだったと思うが、やはり小手先の技術が目立っていた。
そのあとは正確な音階とリズムの打ち込み音楽しか受け付けなくなって、生の楽器の音の
狂いや揺らぎを楽しめるようになったのは、そう、プラントに移民してからだ。
 プラントに行って、ナチュラルが作り上げてきた音楽文化の価値を知ったシンから見る
と、プラント育ちなのにちゃんと感情を込めて――普段は冷静なのに――曲を解釈してピ
アノを弾くレイは、『音楽の才能がある』のだと思った。
 音と舞台に集中すると、魔法の園の乙女達の声が、パルジファルに伸びる色とりどりの
絃に見える。そして、クンドリの声! これで乙女達の誘惑の絃が地に落ちた。
 クンドリの話を聞いて、罪の意識に目覚めていくパルジファルはさっきまでは白く光っ
て見えたのに、青白く見えてくる。死んだ母親の彼への愛について、クンドリが歌ってい
る。それを聞くパルジファルは、なにも過去を覚えておらず、聖なる白鳥を射落とすこと
に罪を感じず糾弾されて初めて己の罪を知ったときよりずっと、はかなく見えた。
 あのときは持っていた弓矢を叩き折って、罪を認めたがこのあとは単純なものではなか
った。
 クンドリから告げられる両親の運命、ヘルツェライデ(心の悩み)という母親の名前。
その母の名前以外に記憶がないことで、いっそう苦悩するパルジファル。クンドリは、そ
の青白く崩折れたパルジファルに、これが母親の接吻だといって迫った。
 シンにはパルジファルの青白いからだが、クンドリの赤い絃で絡め取られているように
見えた。
 次の瞬間、ぱーんとクンドリの赤い絃が跳ね除けられ、パルジファルの体が輝いた。そ
して一幕のアンフォルタスを思い出し、己がなすべきだった仕事に思い当たる。自分の少
年ゆえの愚かしく荒々しい行いゆえに、聖杯城での自分の役目が理解できなかったと、パ
ルジファルはクンドリに抱かれながら続ける。接吻されたことにより、肉体的にクンドリ
を引き離す。
 クンドリの思いはパルジファルに向かっているのに、彼は彼女を拒否し、しかし互いに
己の思うところを歌いあう。舞台の上で、わからないドイツ語でせめぎあっているのだが、
シンには自分の目の前で歌われ、語られているかのように、十二分に感情が伝わってきた。
親のいない、記憶もない少年、でもクンドリにとっては自分が救われるために大事な存在
なのだ。シンはそういう女のエゴに、本能的な拒否感を覚えた。
 クンドリは救済を求めるが、パルジファルにアンフォルタスへの道は教えない。そして
聖槍を使って彼を傷つけたのは、クリングゾルだと言う。
 責任を他人に押し付けるクンドリに向かって、パルジファルが「消えうせよ! 穢れた
女」と朗々と声を上げたとき、クンドリの赤い絃がすべて消えゆくのを、、シンは見た。
 しかし「すべての道に呪いを掛ける」という彼女の言葉は戒めとなってパルジファルを
縛る。城壁に、様子を見ていたクリングゾルが現れる。
 彼は聖槍をパルジファルに投げるが、槍は彼の頭上で静止し、それをつかむ。そして聖
槍でクンドリに「戒め」、という名の呪いを掛けるのであった。

 
 

 もう最終チクルスで、二幕が終わった時には暗くなっている刻限だった。二人は行きか
う女性の中に毛皮を羽織っている人を見て、とことんここはプラントとは異世界だと思う
のだった。
 二人はまたカフェに入って、今度はカレーソーセージのサンドウィッチとコーヒーを頼
んだ。このホットドッグは、パンは10センチほどの固いパンなのに、ソーセージは30セ
ンチほどもあるというしろものだ。
 レイはシンの目つきが普通ではないのに気付いたが、音楽に圧倒されているのかと思い、
何も言わなかった。狭い劇場、見えないオーケストラピットから聞こえてくる音楽、そし
て幅は狭いが無限の奥行きを持つかのような舞台に次々と登場してくる歌手達。
 このバイロイトでの演出は新演出だと議論を呼ぶものだが、パルジファルはあまり演出
家にとって腕の揮いどころのない作品だ。抽象的で演出家が象徴したいものをあらわすの
が、よいとされている。舞台神聖祝典劇なので、俗な部分は排除されるべきなのだ。
 そんなことを考えていたレイに、声が掛けられた。
「無事に劇場にこられて、よかった。私も力添えした甲斐があったというものだ」
 昼間ヴァーンフリートであった紳士だった。
「ありがとうございます。ホテルまで紹介していただいて、おかげさまでこの音楽祭に参
加することが出来ました」
 自分たちの休暇を電話一本で伸ばす相手だ。レイは、自分が丁重にでればその優れた容
姿からいい印象を相手に与えることは知っていた。
 シンも相手がわかったらしく、しかし心無い声で言った。
「ありがとうございます」
 トランス状態というのだろうか、入り込んでいるままだ。レイとしては、よほどのこと
がない限り休暇が終わるまではそのままにしておいてやるつもりだった。彼は音楽好きで、
クラシックに関してはシンよりずっと沢山の音楽を聴いてきたし、自分で演奏もしてきた。
しかしこういう音楽的陶酔というのは、経験など関係なしに、ある意味選ばれたものを狙
い撃ちするのだ。
 レイは、今日のチケットをくれた盲目のマルキオ導師なる人物、そして居心地のいいガ
ストホッフを紹介してくれた隣の夫婦、どちらも信用できないと思っていた。
 とはいえ一階がレストランになっているそのガストホッフでは、あらかじめ頼めば瓜坊
の半身をローストしたものが食べられるということなので、予約してきた二人だ。
 三幕を聞き終えて、宿に帰って食事を摂って、ゆっくり寝て明日基地に帰るまで、シン
に対する責任は自分にあると、ギルバートとの約束とは全然別の友情という理由でレイは
心に誓った。
「あなたたちは、純潔で美しい、聖杯城のお小姓にふさわしい方たちのようですね。いま
は騎士になるための修行を積んでいらっしゃる」
「自分たちは、実際戦場に出ている兵士です。ユーラシアではまだ成人扱いされませんが、
プラントでは大人です。結婚も出来ます」
 レイは丁寧に、しかしはっきりと答えた。確かに自分たちは美しい少年だから、『小姓
のようだ』という褒め方は、特にこの場ではおかしくない。けれど演じられているのは宗
教劇、そして招待主はSEEDがどうとか言っていた宗教家らしき盲目の男、その男と近しい
らしい有力者の夫婦。
「そう、プラントでは15歳で成人だそうだね」
「ユーラシアでは17歳だそうですが。我々は16歳です」
「戦争で地球に来てらっしゃる。つまらないことですわ、戦争なんて。人の心の平和をも
っと大事にしなければ、世界は滅びてしまいます」
 この意見には同意できた。宗教を盲信して旧時代には沢山の戦争があったが、心の支え
にもなるのはわかる。プラントでは宗教というのは滅んだ遺物だ。その唯物的な姿勢が、
コーディネーターの弱点で、とにかく価値が一元的で優れた者にこだわる。優れた遺伝子
と適性のある遺伝子は違うのだが。自分たちの赤服も、アカデミーを優秀な成績で卒業し
た優良な遺伝子と能力の持ち主だという宣伝だ。とにかくコーディネーターはそういう区
別をつけるのが好きなのだ。
「早く戦争が終わるようにと、我々も思っています」
「ええ。わたくしの従兄弟の息子にプラントに移民してるのがおります。……地球の有名
大学で博士号をとっているのに、工場労働者だとか。プラントって、そういうところです
の?」
「二十歳以上の95%は博士号の所有者ですし、労働人口の50%が工場労働者です。その高い
技術力が、プラントの産業のみならずその根幹となるコロニーを支えています。宇宙では
空気も重力も、ただでは手に入らないのです」
 レイは答えながら、地球とプラントは、互いの社会の違いについて知らなすぎると改め
て思った。

 
 

 隠者の庵、そこにいるのは老齢になったグルネマンツであった。
 彼は庵の外に倒れている女性を見つけ、介抱する。それはクンドリであった。
 シンの目には衣装が違うこともあるが、クンドリを取り巻いていた華やかな色彩が消え
て、かわりに地味ながら優しく見えた。
 そこに森から、真っ黒な鎧に身を包み、槍を持ち、兜の面頬を下ろして顔を隠した男が
姿を見せた。台本を読んでいなくても、これがパルジファルだとわかった。鎧の中から、浩々と輝いている。
 グルネマンツが彼に、聖金曜日だから武器を持っていてはいけないと告げ、頭をたれて
聞いていたパルジファルは地面に槍を突き刺し、己の武装を解いて黙祷した。
 そしてクンドリとグルネマンツは、彼が白鳥を打ち落とした愚かな若者であることを知
る。
 放浪生活により迷いと苦しみの道を通ってきたパルジファルは、己の持つ高貴に輝く聖槍が、聖杯に属することを宣言する。
 歌を聴いているだけで、どういう苦労があったか見えたし、声に知性を感じる。作り物
の槍がぱっと輝いてシンの目には映った。アンフォルタスのところに行かなければと、使
命を自覚した聖なる愚者パルジファルの目覚めに、グルネマンツは聖杯城の現状を告げる。
彼が聖槍を持って戻ってきたことにより、聖杯の儀式が復活するのだと。
 クンドリはパルジファルの足を洗い、グルネマンツは彼の頭に水をふりかけた。
 これが特別な行為であるのが、パルジファルの足と頭が一段と輝きを増したことでシン
にもわかった。福音書を一読したことのある人なら、新しいメシアの登場と理解しただろ
う。
 聖別されたパルジファルは、ひざまずくクンドリに洗礼を授けた。泣きじゃくるクンド
リから新しい、柔らかさと慈愛に満ちた涙が落ちたと、シンは思った。
 隠者の庵も、その周囲の森も、聖金曜日の祝福に、明るく生き生きとして見えた。
 グルネマンツに聖杯騎士のマントを着せられたパリジファルは、聖槍を持って聖杯城へ
向かう。
 殿堂では聖杯の厨子、先王ティトレルの棺、そして病気のアンフォルタスがそろい、し
かしもう望むのは死だけと、アンフォルタスは父の遺体に歌い掛ける。
 照明自体暗くなったが、舞台から漂ってくる雰囲気が陰気で息が詰まった。
 そこにパルジファルがやってきて、すっと前に出て聖槍でアンフォルタスの脇腹にふれ
た。傷を治せるのは、その傷を作った武器だけと言いながら。
 アンフォルタスは歓喜し、それをグルネマンツが支える。
 聖槍を持ったパルジファルは祭壇で、小姓から聖杯を取り、ひざまずいて祈りを捧げた。
舞台にいる人が全員、小姓や騎士達まで、神聖な光に包まれ、特にパルジファルと聖杯、
聖槍はまぶしいほどにシンには思えた。
 救済の奇跡が歌われ、キリストを嘲った罪で死ぬことを許されなくなった女クンドリが、
静かに事切れた。
 幕が下り、拍手なしで粛々と観客が劇場をあとにする。
 作者ワーグナーが『パルジファル』上演に当たって決めたことだが、このバイロイト祝
祭劇場においても、拍手をするマナー知らずがいるのが普通だということを、シンとレイ
は知らなかった。

 

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